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長門湯本REPORT:長門湯本の秋を彩る「南条踊り」— 受け継がれる四百年余りの歴史

9月13日、山口県指定の無形民俗文化財「南条踊」が奉納されました。
大花団扇を高くかざす新発意と、白装束で腕を伸ばし舞う湯本南条踊の側踊

当日は午後一時、大寧寺の境内で踊りが始まりました。あいにくの雨となったため、続く赤崎神社での奉納は深川小学校の体育館へと場所を移して行われ、そこから最後は夕方の恩湯広場へと踊りがつながっていきました。

南条踊りは、岩国藩の吉例の踊りとして伝えられ、俵山を経てこの地へと受け継がれてきました。赤崎神社の秋の例大祭などで奉納される、勇壮でどこか懐かしさのある踊りです。

保存会の資料によると、法螺貝の合図とともに踊りながら入場し、花団扇(はなうちわ)を持った二十四人が外輪をつくり、その中心で「中踊(なかおどり)」が向かい合います。隊形が整うと、大将役が大花団扇をかざして「東西! 東西!」と呼びかけ、奉納を告げます。
太鼓を合図に、歌と踊りが重なっていく。動きだけでなく、声や音の掛け合いにも引き込まれ、見ているうちに胸が高鳴るようでした。

南条踊りの由来には諸説ありますが、保存会の資料では、天正六年(一五七八年)の出来事が紹介されています。伯耆国(ほうきのくに)、現在の鳥取県にあった羽衣石城(うえしじょう)の城主・南条元続(なんじょうもとつぐ)と、毛利家臣・吉川元春(きっかわもとはる)との争いにまつわる物語です。

元続が密かに織田信長へ内応していたことが露見し、元春が兵を進めます。元続は和睦を求め、元春はなかなかそれを受け入れなかったといいます。
そこで元春が利用したのが、元続は踊りを好むということでした。武士たちを踊り手に仕立て、城内へ送り込みます。一行は「明年参ろう 又参ろう」と謡いながら入城し、太鼓を合図に刀を抜いて攻め入ったと伝えられています。この出来事を後世に伝えるために始まったというのが、南条踊りの由来の一つです。

その後、岩国から俵山へ伝わった踊りは、延宝二年(一六七四年)、湯本にも伝えられました。資料には、湯本の庄屋・平川某が赤崎祭への奉納を願い、伝授を受けたと記されています。
この地に伝わってから、三百五十年以上。遠い時代の物語が、今も身近な場所で行われる行事として続いていることに、改めて驚かされます。

南条踊りは、たくさんの人がそれぞれの役割を担うことで成り立っています。

行列の先頭と後方を守る人、中心で踊る人、花団扇を手に周囲を囲む人。幟(のぼり)を掲げる人、弓や槍を携える人、太鼓や鉦(かね)を打つ人。それぞれの動きや音が合わさって、一つの奉納になります。
行列の前後に立てられる短冊にも、意味があります。金銀五色の短冊に観音経を書き写し、生笹に取り付けたもので、霊の依代とされています。大寧寺で整えられ、踊りの一行へ贈られる習わしだそうです。

目を引く衣装や道具にも、一つひとつ由来がある。そのことを知ると、踊りとともに、地域の信仰や人々のつながりも受け継がれてきたのだと感じます。
歌詞には、贈り物の品々や、さまざまな毛色の馬などが登場します。今では耳慣れない言葉も、歌のなかに残されています。昔の言葉や情景が、人の声を通して今も伝わっているのだと思うと、不思議な気持ちになります。

当日、響き渡る掛け声や歌を耳にしたとき、素直に胸を打たれました。

ひとつひとつの所作、歌詞、掛け合いの間合い。何度も練習を重ね、互いに声や動きを合わせてきたからこそ、あの踊りになるのだと思います。
目の前で踊る皆さんにも、教えてくれた誰かがいて、その人にもまた、教わった相手がいた。そうしてたどっていくと、長い年月の向こうに、踊りを覚え、伝えてきた人たちの姿が浮かぶようでした。
その積み重ねの先に今の踊りがあり、これからもまた、次の誰かへ手渡されていくのでしょう。見ているうちに、長門湯本の過去と未来が、この時間につながっているように感じました。

いつも何気なく歩いているこの町に、こんなにも深い物語が積み重なっていたのだと、あらためて実感しました。
今年の奉納を支えてくださった湯本南条踊保存会をはじめ、関係者の皆さま、ありがとうございました。

雨の大寧寺で始まった一日の奉納は、少し青空ものぞく夕方の恩湯広場で、無事に締めくくられました。
これからも、この踊りが受け継がれていくといいなと、心から思います。

 

文:土田由里

参考資料:湯本南条踊保存会「湯本南条踊について」「南条踊の仕組」