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歴史とロマン漂う「西の高野」大寧寺・其の一 【大内氏終焉の地・・「姿見の池」と「兜かけの岩」】

歴史とロマン漂う「西の高野」大寧寺・其の一 【大内氏終焉の地・・「姿見の池」と「兜かけの岩」】


大寧寺のお話
其の一【大内氏終焉の地・・「姿見の池」と「兜かけの岩」】

曹洞宗屈指の名刹。かつては西の高野といわれる隆盛を誇った大寧寺。

この紅葉のシーズンに大勢の方が「姿見の池」の美しい写真をあげられておられましたので、ご興味があればと、
今回は、戦国時代最大の悲劇の主人公と呼ばれた大内義隆公の「終焉の地」としての大寧寺のお話をしようと思います。

 

 

大内氏は戦国時代、山口にすぐれた大内文化を育てあげた名族です。
天分20年(1551)の出来事
西国の覇者として山口に栄華を極めた大内義隆公でしたが、
重臣・陶隆房(のちの晴賢)の反逆によって山口を追われ
山道をたどり仙崎から海路脱出をはかったものの風波に阻まれ、
9月1日、再び陸路、湯本のこの大寧寺へ逃げ延びてきました

義隆公は境内に入る前、乱れた髪を整えようと参道わきの岩にかぶとを掛け
そばの池に顔を映そうとしましたが、水面には自分の顔が映らず、自らの運命を悟ったと云われています。

 

 

義隆らは行水し、白装束で異雪和尚の法話を聴き、重臣・冷泉隆豊の介錯により潔く自刃
すでに、寺を囲んでいた追っ手により、寺には火が放たれました

討つ人も討たるる人も諸ともに如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)
討つ人も討たれる人も、人生は露のように、稲妻のようにはかないものだ。)義隆公の辞世です。

残るわずかな義隆勢は敵中に打って出て次つぎにたおれ、
最後に冷泉隆豊が経蔵に入って割腹、はらわたを投げつける悲憤の最後を遂げたと云います。

 

 

義隆の子、義尊らは異雪和尚の誘導で俵山に逃れたが助かりませんでしたが、そのお話は、またひとつの別のお話となります・・

四年後、義隆の辞世のとおり、毛利元就によって陶晴賢も敗れ厳島で自害します。

* 因みに、現在の建物は毛利元就が再建。大内氏の遺言を受託した正義のあらわしであり、勝利の宣言。平和のよびかけでもあるといわれています。

本堂近くの山道を登ると(遊仙窟)に義隆主従の墓があります。
宝篋印塔(ほうきょういんとう) の墓石のそばに、
明治21年(1888)、毛利元徳がそれぞれ名を刻んで建てた三十三基の墓標があります。
また、義尊や三条公頼(武田信玄の義父)ら、大寧寺 近くで難に遭った人の墓もあります。
墓所は昭和四十二年、 山口県指定の史跡とななりました。

 

 





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